「文化人類学の危機と再生」『大学時報』94年11月号



文化人類学の危機と再生


山本真鳥●法政大学教授


 文化人類学自体、形をなし始めたのがせいぜい前世紀のことであるから、新しい学問の範疇に入ろうが、日本での歴史はさらに浅い。戦前にも、理学部人類学教室や文学部考古学教室等で民族学や土俗学の名で細々と続けられてきたのだが、正式な学科が設立されるのは、ようやく戦後のことである。

 新しい学問として新しい視座を提供し、かつまた数々の文筆界のスターを抱えて、文化人類学は脚光を浴びてきた。それら活躍してきた文化人類学者の半数以上は、実は戦後日本の文化人類学の教育を受けた純粋培養ではなかったのだが、ようやく教育が実を結びかけてきた最近になって、文化人類学の危機が叫ばれるようになってきている。

 そして、海外の学界においても、何やら最近はきな臭くなってきて、文化人類学の閉塞状態に様々な意見が寄せられつつある。文化人類学の現代の知に対する貢献は、世界的規模でも減じられつつあるようだ。

 文化人類学の危機については様々な考察が進行中で、それらを紹介するだけでもここには収まり切らないであろう。ここでは、私なりに問題点をわかりやすく紹介し、考察の筋道を覚え書きとして示しておきたい。

《文化人類学と未開社会》

 文化人類学は、西欧文明が多様な未開社会と接したときに始まった。様々な想像を絶する慣習――食人・首狩り・奇妙な親族組織・王殺しといった慣習を、始めは我々の祖先の所業と同じものとして理解し、人類が今日の文明を築くに至る道程を描くことがもっばらの課題であった。

 その後、そうした進化主義的歴史研究に異議が差し挟まれ、研究の方向は変わってきているが、相変わらず未開社会の研究は、人類文化の普遍性と多様性を学ぶために欠かせないものとされてきた。人類とは何か、文化とは何なのか、を考察するうえで、文明社会の考察だけでは不十分である。極端に異なる習慣をもつ未開社会、エキゾチックな未開社会の慣習をも人類文化の普遍住の中に取り込むことによって初めて、人類の文化とはなんぞやという議論ができるようになる、というふうに未開社会研究の意義が主張されてきた。

 また、生活様式や思考様式としてとらえる文化を社会全体の枠組みの中で把握する必要性から、単純な社会である未開社会研究の特権的位置を強調する人々もいた。例えば日本社会とひと言で言っても、階級差あり地域差ありで、一人の研究者がその全体にアプローチすることは不可能といってもよい。しかし、未開社会であれば小規模かつ均質であるのが普通だから、一人の文化人類学者がフィールドワークによって、全体像を把握することが可能である。

 フィールドワークの重要性が説かれたのは、以上の事情とも関連している。文化人類学者が単に現地に赴くばかりか、現地の生活に溶け込み、言葉を学び、人々の生活の襞々まで把握することにより、より細かな観察を行う参与観察の方法と、数々の現地人との対話を通じて弁証法的に理解を深める方法でフィールドワークを行い、調査報告としての民族誌を記述することは、文化人類学の研究の根幹をなすものとされている。

 通常の社会科学が、客観性を維持するために、対象社会をできるだけ遠景においてとらえようとするのに対し、文化人類学は、客観性を危険に陥れても、対象に飛び込んで対象のものを全体的に把握しようと努力したのは、方法論上のこうした経緯による。フィールドワークが、大学院学生が一人前の研究者となるための“通過儀礼”と見なされているのは、諸外国でも日本でも変わりはない。

 文化人類学者が研究するような社会の場合、先立って探検家や宣教師、植民地行政官等々が記述を残していることは多いが、それでも他の学問に比べて文献の量は格段に少ないといえよう。また、未開社会にも様々な歴史的変化があったはずであるが、西欧との接触といった「例外的できごと」がなければ、比較的変化の起きにくい社会であると考えられてきた。文化人類学者は多くの場合、できるだけ文明に接する機会の少ない調査地を探そうと努力してきたし、それが不可能でも、伝統文化がなんらかの形で多く残っている地域を選んで調査してきた形跡は明瞭である。接触のために変容したと考えられる慣習については、元の姿を再構築する試みが報告書の中でなされてきた。

 そのようにして得られた民族誌の中の社会像は、これまでの歴史学研究のデータと合わせ、時間軸を無視して比較されたが、これは民族誌的現在、及び文化相対主義の二つの概念によるものである。民族誌や歴史的記述は、それらが書かれた時点での社会の全体像を語るもので、統一のとれた総体として互いに比較可能であるとする「民族誌的現在」の概念は、文化像に評価的価値判断を含ませず、一億人の文明社会の文化も、二百人の未開文化も同様のレベルで比較するという、相対主義の理念で補強されることとなったのである。当初、未開の文化を文明と同列に語る手法は大変ショッキングな効果をもたらした。例えば、ニューギニアのビッグマン政治と自民党の派閥政治は、こうした概念の補強があって比較可能となった。しかし、このショック療法は、そろそろマンネリの傾向にあるのかもしれない。

 未開社会をこのように文化人類学の研究の特権的領域としてきたこと、そして、未開社会を非歴史的に扱ってきたことに、最近では多くの批判が寄せられるようになってきた。端的に言って、文明と接触していない未開社会はほぼ存在しなくなってきているのだし、文化を未開社会をもとにした考察だけで語るというのも、非現実的な営為と言わねばならない。また、未開社会自体どんどん世界システムの内に取り込まれてきており、様々な援助・経済開発・移民・観光開発といったことが急速に生じている。人々の生活や慣習に大きな影響を及ぼすこれらの現象に、現在の、特に日本の文化人類学が十分対応し切れていないのが現実である。

文化人類学と植民地主義》

 文化人類学が植民地主義の婢(はしため)として発展してきたという批判は古くからあった。イギリスでは、この学問が植民地統治という必然性と相まって発展してきたことは明らかである。現地の伝統的政治機構をできるだけ利用して円滑な植民地経営を図ろうという行政側の意図があったし、有能な植民地行政官の中には有名大学の社会人類学部の卒業生が多数いた。海外植民地の少なかったアメリカでは、文化人類学の研究対象は当初、国内の植民地化された人々であるネイティブ・アメリカンであった。戦前の日本の民族学の発達も、日本の帝国主義的進出と無縁ではなかった。

 さらに、たとえ明確に植民地主義に利するものとして研究をなさずとも、文化人類学者の著作が植民地経営に利用されることを防ぐのは難しい。けれども、これまでこの問題は、文化人類学者のモラルの問題として片づけられる傾向が強かった。例えば、現地の人々が稀密にしている知識をたとえ入手しても勝手に公表しない、等々といった倫理項目として。

 しかし、文化人類学と植民地主義の問題について新たな問題提起をなし、文化人類学者に痛烈な一撃を食らわしたのは、サイードの『オリエンタリズム』であった。彼は、中東を理解しようとする西欧の知見が、西欧の枠組みに当てはめたイスラム世界の後進性を強調し、植民地支配を正当化するディスクールに満ち満ちていたことを示した。そしてそうした知見は、文化のへゲモニーとなって知の世界を支配するものとなってしまう。彼は、文化人類学者の仕事には多少の留保を与えていたものの、自己点検によれば、同じことは文化人類学者の業績にも同様に当てはまるといえよう。単に知識が植民地支配に利するものとなっていたというばかりか、把握の仕方そのものが植民地主義的であった、という批判は重大である。

 ここでは、異文化理解・他者理解ということが焦点となる。文化相対主義により、異文化――それなりに斉一性のある統一体――を自文化と同等のものと位置づけ、異文化の思考に沿って異文化を理解するといっても、そこに働くパワーポリティクスは、実は明瞭そのものなのである。欧米の人類学者が未開社会、あるいは第三世界に赴いて調査をすることはあっても、未開社会の人々が文明社会のフィールドワークをすることはないのだから。そうして文化人類学の知見は未開社会を、あるいは西欧にとっての異文化・他者世界を内側から理解しようとする試みであっても、そこに様々な文明社会からの思い込み、すなわち「偏見」を包摂するものとなる。

 文化人類学者は、未開社会をさげすんだり、哀れんだりするのではなく、それなりに統一のとれた世界をなすものとして示し、またそれら文化の様々な「英知」を強調して、文明社会の「偏見」を覆してきた。しかし一方で、文化人類学者の描いてきた統一のとれた未開社会の文化像は、西欧接触以前をできるだけ再構築したもの――同時に構成したもの(コンストラクト)でもあった――であり、未開社会を「歴史なき社会」「冷たい社会」、また滅びゆく文化として文明社会に対置するものであった。この文化人類学者の仕事の様々なジレンマは、特にハワイ人も含めたネイティブ・アメリカンの先住民文化運動において槍玉に挙げられることとなった。

 ともすれば、文化人類学者は「滅びつつある」文化の現状を嘆き、「伝統」から外れた現在の人々の文化的営為を、いいかげんなもの、まがいものとして指摘する――しばしば文化人類学の先駆者の民族誌は、そこで正典として取り扱われた――傾向にある。多くのこうした極めて政治的な文化運動の中で、文化人類学者は敵視すらされる傾向にある。

 日本でも、これはアイヌの文化運動の中で生じている。文化人類学者は、アイヌ文化を必ずしもさげすんできたわけではなく、その「伝統文化」を統一のとれたオールタナティブの文化として、称揚することすらあった。しかし、一方でその「伝統文化」志向ゆえに、ともすれば、現在のアイヌ人の観光も含めた様々な文化的活動をけなし、「真正性」の欠けたものであると軽蔑してきたのである。

 文化を接触以前の「蜜の時代」のものとして、文化人類学者が無時間的に描いてきたということも問題視されなくてはならないが、それと同時に、そこには重大な問題提起がなされている。文化をだれが語るのか、文化を語る権利はだれにあるのか、という疑問がそれである。本来、文化について語ることは、文化をもつ人々だけのものではないはずだ。部外者が語る権利を排除した世界というのは、コミュニケーションを拒否した恐ろしい世界となってしまう。それにもかかわらずこうした疑問が提示されるのは、知の偏在が存在しているからである。文化人類学者の記述する書物は広く世に行き渡り、あたかもその社会の「正典」として扱われるが、一方でその社会の人々の声がよその世界に届くことはない。人々はマーガレット・ミードの『サモアの思春期』でサモア人の自由な性を知るが、サモア人自身のサモア社会の性のモラルについての反論は全く聞こえてこないのである。

 現代文化の新しい状況を前にして、文化人類学者は頭を抱えざるを得ない。これまでのところ、様々な提言がなされているし、また先住民運動に肩入れする文化人類学者も数多くなってきているが、まだまだ解決すべき多くの問題が山積しているのである。とりあえずは、「伝統文化」志向について幾多の反省がなされ、歴史的研究の重要性が強調されるようになり、現在人々が生きている現状をそのままに描く民族誌の方法――観光人類学や社会変容の研究、移民研究等々はそうした意識を盛り込みつつ進行してきている――が模索され、また文化のもつ政治性についての研究が進行中である。

《日本の文化人類学》

 日本の文化人類学、特に戦後の文化人類学の場合、植民地主義的であるという批判は受けにくい――植民地主義的でなかったというつもりはない――立場に存在していたためか、こうした現代の文化人類学の抱える諸々の問題についての考察は、とりわけ立ち後れていると言わねばならない。いまだに「伝統文化」は学界で強く志向されている。

 実は、ある意味で日本の文化人類学は奇妙な位置にある。非欧米諸国の中で異文化研究をもっばらとして発達したのは、日本だけといってよいからである。例えば、アメリカに比べて日本の文化人類学者の数は限られているものの、日本の学会規模はヨーロッパでのそれにひけをとらない。しかし、日本の文化人類学研究の特性は学会規模にあるのではない。多くの非欧米諸国において、文化人類学は自国の研究となっているのに対し、日本の文化人類学は異文化研究にこそ重点が置かれてきたという点が重要なのである。

 端的に言って、それには経済的な要因が大きいのかもしれない。少なくとも日本では、自前の教育システムで文化人類学者の育成が行われてきた。多くの非欧米諸国では、一人前の文化人類学者となるために、まずは奨学金をもらって欧米に留学する。そこから調査に行こうとしても、第三国に調査に出る研究費をもらうことは難しい。また、留学先での研究上の競争に勝利するためには、自国の文化を研究するのが近道である。すでに言語や基礎知識において問題はなく、欧米の学生との競争において不利な面も十分カバーできる。

 日本の教育システムで育った文化人類学者の場合、私が大学院学生だったころ(もう二十年も前になろうか〉、すでにいかなる方法を駆使しても調査費にありつけない学生というのは少なかった。また、プロの文化人類学者の場合、文部省も含め多くの財団が林立する現在、調査費を工面する方法は、欧米の学者よりも恵まれているといってよい。

 一方で、日本の文化人類学者の業績は国際学界――それはとりもなおさず欧米の学界でもあるのだが――にあまり受け入れられてきていない。一つには、言語の問題がある。英語で論文を書くということがそもそも少ないし、国立民族学博物館等で英文報告書を出版していても、いまだに世界的に権威ある出版物とは見なされていない。欧米の雑誌に投稿することが国際的に業績が認められる道ではありながら、手間を考えると、国内での読者を獲得することのほうが優先されてしまう。二重構造の壁は意外と厚いのである。

 しかし、日本の文化人類学は、実は世界的規模での文化人類学の新たな展開に寄与しうるものである、と私には思える。もちろん、欧米社会と異なる文化的背景によつて、これまでの未開社会の分析に異なる視点を加え、風穴を開けるという可能性もあるが、それにまして、以上の文脈に沿った成果の明らかな二種類の研究がある、と思う。それは、日本研究と欧米研究である。

 日本研究は、異文化研究を重視する日本の文化人類学界にあって、ともすれば調査費の出ない人のかかわる“貧しい”研究と見なされてきた。しかし、ネイティブの研究と部外者の研究との対等な突き合わせを現代の文化人類学研究の重要な契機と考えるなら、その可能性は日本文化・日本社会の研究にこそあるのではなかろうか。困難さは未開社会の場合よりは格段に少ないはずだ。何語で討論するのかについて問題は残るが、欧米の文化人類学者も、こうした日本の文化人類学の研究を見逃すことはできないはずだ。未開社会研究のときに無視されてきた日本の文化人類学者の業頼も、ここでは無視し得ないものとなる。ただし現状では、欧米人による多様な文化人類学的日本研究がフィールドワークをもとにして行われているのに対して、日本の文化人類学者の多くは無関心を貫いている。この無関心は危険であるように、私には思える。

 欧米研究も、同様の理由で有意義であると思う。現在のところ、自前の調査費で異文化としての欧米研究が可能な国は日本以外にはとんどあるまい。欧米の研究も、欧米人が行えば自文化研究となるが、日本人にとってこれが異文化である以上、日本研究の場合と同様な「調査する者」と「調査される者」との間の対等な対話が存在しうるのではあるまいか。実は欧米でも、文化人類学者による自国研究は、文明社会であるうえに自文化であるために、これまであまり行われてこなかった。いまだ端緒についたに過ぎず、多くの可能性をもつ分野であるといえよう。

 日本の文化人類学が、これまで専業としてきた未開社会研究を傍らに置き、未開拓のこうした分野に取り組むためには、まず解決しなければならない問題点も多いかもしれないが、曲がり角にきている文化人類学にとっての新たな方向性として、少なくとも私には可能性の光が見えるように思える。(終)