法政大学 山本真鳥
目次 | |
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1. | 植民地時代のポリネシア人 |
2. | ポリネシア諸国間の連帯 |
3. | ポリネシア系移民コミュニティのエスニシティ |
4. | 観光とポリネシア文化 |
5. | 結語 |
ポリネシアはおおまかにいって、太平洋諸島の中でもハワイ、ニュージーランド、イースター島の三点を結ぶ三角形の内側の海域に位置している。南中国あたりに発したオーストロネシア語族の移動は、たかだか五千年程度しか遡らないが、この民族移動により、西はマダガスカル島から東南アジア島嶼部を経て、東はイースター島にいたる広大な海域にオーストロネシア語族は分布することとなった。その最も東に位置するのがポリネシア人であるが、三千年ほど以前にサモア諸島ないしはトンガ諸島に到達したポリネシア人はその後一千年ほど後にマルケサス諸島に一部が移住し、やがてソサエティ諸島を中心に、四方八方に拡散してポリネシア人の移住が完成したということが今日の先史学によって確かめられている。
しかし、こうしたポリネシアが文化的にホモジーニアスであるといった議論はもともと学者のものであり、多くのポリネシア人にそれが意識されるようになったのは、島嶼国家が独立して互いの交通が増し、環太平洋地域にポリネシア人の移民コミュニティが成立するようになったごく最近のことである。ここでは、そうした戦後のポリネシア人同士の《出会い》が、彼らのエスニシティやアイデンティティ意識の形成にいかなる影響をもたらしているかを論じる。英文のタイトルが「文化の生産と国家」というこの論集では、文化の生産に国家の存在が深く関わっている点が強調されているが、ここでは国家を越えた文化の無法状態の中で、やはり文化が政治的に操作されていく過程にも焦点をあててみたい。
1.植民地時代のポリネシア人
マダガスカルから東南アジア島嶼部を経て、イースター島にいたる地域の言語に近縁関係が存在することは、この地域の科学的踏査を初めて行ったキャプテン・クックの時代(18世紀後葉)から示唆されていた。中でもポリネシアでは互いの文化が非常に近い。ほぼ共通の栽培植物や家畜をもち、多くの神話を含む共通の口頭伝承があり、ウム(石蒸し料理)という調理法やカヴァ(同名のコショウ科植物の木の根を砕いて水に浸した上澄み液)という儀礼的飲料を共通に有しているし、多くを共有する航海術や漁撈技術に加え、非単系出自集団や階層制に基づく社会組織が存在しているのである。言葉は方言レベルの違いでしかないから、ポリネシア人にとって、他のポリネシア語は話せなくとも理解できたり、理解できなくとも話題の推測が可能である(山本 1987a: 181-202)。クックは、タヒチ人を何人か船に乗せて他の島を訪問する際に通訳をさせたというが、彼らは他のポリネシア諸島でも、すぐに現地の言葉を覚えて役目を果たした。
しかしながら、ポリネシア人自身はそのような「近さ」をヨーロッパ人との出会い以前には必ずしも把握していなかったはずである。ポリネシア諸島間の移民・移住の運動は、ヨーロッパ人がこの海域で活躍するまでにはほぼ終了しており、例えばトンガ・サモア・フィジー間といった近隣の諸島間の交通はともかくとして、遠距離の諸島間では既に交通は行われなくなっていた。近隣諸島の間では、交通も交易も存在していたようだが、互いの慣習の差異・言語の差異はむしろ連続的なものとして意識されており、明確な境界をもつ「文化の塊」として把握されてはいなかったと思われる。ヨーロッパ人の船が往来するようになってしばらく、そうした船に乗ってあちこちを訪問するポリネシア人の冒険者たちが存在していたことは興味深い*1。しかし諸島間の交通はやがて植民地化に伴い分断され、人々の生活は諸島内に閉ざされるようになった。
植民地時代にも若干のエリート・ポリネシア人は、そのようなポリネシア人同士の近縁性に興味を覚えていたようである。例えば、アメリカ人貿易商とサモア女性との間に生まれ、やがてソロモン諸島のプランテーション経営で財をなしクイーン・エマと呼ばれたエマ・フォーサイスは、ハワイ王朝の同名のエマ女王の存在に心動かされた(Robson 1979: 59)ようであるし、またスコットランド人とマオリ女性との混血の医師ピーター・バック(後にテ・ランギ・ヒロアと名のった)は、ポリネシア人としてのアイデンティティに目覚めて後、ポリネシア人の移住の歴史を調査研究した*2。しかしこれらはヨーロッパ人の世界に片足を踏み入れた人々であり、一般のポリネシア人にとって自らの生活世界の中にこのような「世界文化地図」が表れることは、まずほとんどなかった。
2.ポリネシア諸国間の連帯
しかし、そのようなポリネシアに属す諸社会は、ようやく第二次大戦後の1960年代から国家としての独立や様々な形での自治領化を実現していった。1962年には西サモアがニュージーランドから独立し、1965年にはクック諸島がニュージーランドの自治領となり、1970年にはフィジーがイギリスから独立する。それまで王国として内政権を維持しながら、外交権はイギリスにゆだねてきたトンガ王国も、1970年には外交権を回復して完全な独立国となる。1974年にはニウエがやはりニュージーランドの自治領となり、一九七六年には、それまでギルバート・エリス諸島とまとめてイギリスに統治されていた地域がミクロネシアのキリバスとポリネシアのツヴァルの二つの地域に分離し、キリバスは同年、またツヴァルは1978年に独立。アメリカ領サモアも70年代後半頃から自治権は拡大している。未だ独立が達成できていないのは、フツナ・ウヴェア(仏領)。トケラウ諸島はあまりに小さいため、将来もニュージーランドから独立の見込みはなさそうだが、自治権は拡大してきている。仏領ポリネシアは別な政治的理由で独立は難しいといわれている。また、ハワイやニュージーランドのように、ポリネシア人が先住民化しているところもある。
独立ないし半独立したポリネシア諸国が出会う国際的場面は様々あろうが、そうした機会はむしろポリネシアだけでまとまるのではなく、太平洋諸国としてまとまることの方がはるかに多い。太平洋で初めて作られた国際機構の南太平洋委員会(SPC: South Pacific Commission)は、もともとは第二次大戦直後に宗主国が植民地の開発のために組織したもので、後に独立諸国や自治領・自治政府も加盟したが、旧宗主国のイニシアチヴが大きい。それに対して、地域首脳の会議として発達した南太平洋フォーラム(SPF: South Pacific Forum)は、フィジーのカミセセ・マラ元首相の提唱によるもので、後にオーストラリアとニュージーランドも加盟したが、フランスの核実験や日本の核廃棄物海洋投棄計画に抗議をしたり、明らかに大国の利益に対する小国の利益を守ろうとする傾向が強い。
このような国際会議の場で、太平洋諸国の元首たちが出会う機会は多い。また、政府代表がハワイ・オーストラリア・ニュージーランド等の国際会議の場で出会う機会は数限りない。
さらにこれらの他に、南太平洋大学*3等の高等教育機関は域内からの多くの留学生をもち、島嶼国家の将来のリーダーたちが出会う場となっている。教会の催す会議や教会関係者の訪問もある。さらに環太平洋先進国が催すセミナー等もある。太平洋諸国のリーダーたちが集う場面は、戦前に比べてはるかに増大しているのである。
国際会議の場では、もっぱらに太平洋諸国の連帯を表明し、旧宗主国、援助国に対しての連帯、団結を図ることになる。特に南太平洋フォーラムはそのよい例となるが、カミセセ・マラ元首相が提唱したパシフィック・ウェイはその中心的な思想である。このパシフィック・ウェイというのは、植民地化により分断されていた各独立国の間に共通する伝統と文化を保ち続けながら、互いに協力しつつゆっくりと近代化に取り組もうという主張である。伝統と文化を共有することについて、具体的な事実が述べられるのではなく、あたかも自明のこととして前提とされているが、実はポリネシアとメラネシアの間には、大きな文化的・社会構造的差異が存在することについてはかねてより指摘がある。ポリネシア諸国が単一民族でまとまっているのに対し、メラネシア諸国は概して多くのエスニック・グループを含んだ他民族国家でもある。共通しているものについてはブラックボックスにいれた上で、ゆっくり行こうよ、という主張が先に強調されているのである(Crocombe R. 1976)。ただし、伝統と文化を共有するかどうかはともかくとして、植民地化の歴史を経ても、いずれの国も親族組織や自給自足経済といった伝統生活の側面を社会内に多く維持していることは間違いない。伝統文化の比重が高いという意味でどの国も共通しているわけであり、その意味でゆっくり行こうという主張は理解できる。他にしばしば用いられているキー・コンセプトとしては、脱植民地や非核独立等をあげることができよう。
これら太平洋島嶼国出身者の出会いの中で、彼ら自身の文化は断片的かつシンボリックに用いられることになる。カヴァ儀礼等儀礼の一コマ、ダンス、演説、細編みゴザ等の土産品のプレゼント等々、が新たな出会いの儀式のうちに互いの連帯は表明されることになる。
3.ポリネシア系移民コミュニティのエスニシティ
それら島嶼諸国のリーダーたちの出会いに対して、一般民衆の出会いもある。それは、戦後の移民の級数的増大の中で、アメリカ合衆国(主にハワイ州・カリフォルニア州)やニュージーランド、オーストラリア等の移民先での出会いである。
主に戦後に開始された太平洋島嶼部から環太平洋への移民は、目下のところポリネシアからの移民がメラネシア・ミクロネシアからの移民をはるかに凌駕している。表1に示すように、クック諸島、トケラウ、ニウエからニュージーランドへの移民、アメリカ領サモアから合衆国本土への移民は、本国の人口をはるかに上回るほどである。また、独立国西サモアやトンガからの移民も数多く、わずかにポリネシアではツヴァルを残すだけで、他は移民立国といってよいほどに移民が多くなっている。移民の送金は、海外収支の中で大きな比重を占め、政府は輸出に替わるものとして明らかにこれを当てにしているのである。
これらポリネシア移民は、移民先で非熟練ないし半熟練労働者として、下層ないしローワーミドルの階層に属し、本国の親族への送金等の貢献に余念がない。親族の連帯が緊密な半自給自足の社会からの出身ゆえに、親族組織を媒介とした連鎖移民が多く、また移民先で集住地域を形成している。教会活動を媒介として緊密なコミュニティが成立している。
しかし、このようなポリネシアの移民たちは、同じポリネシア系の他のコミュニティとは没交渉の傾向が強い。この傾向は特にアメリカでは顕著である。カリフォルニアでサモア人移民の調査研究に携わっていた筆者は、別の研究プロジェクトのためにトンガ人の大学卒業生にインタヴューする必要に迫られ、それまで協力関係のあったサモア人向けコミュニティ活動を行っている団体に問い合わせてみたが、トンガ人向けの同様の組織が存在しているかどうかすら知らないことが判明した。
サモア人とトンガ人とはしばしば通婚関係があり、個人的には様々に出会いの場があるはずだ。それにも関わらず、コミュニティ・レベルではあまり接触がないのである。筆者の調査していたサンフランシスコ湾岸地域では、サンフランシスコ市のすぐ南のデイリ・シティや南サンフランシスコ市あたりがサモア人の集住地域で、さらに南の東パロアルト市はトンガ人の集住地域となっている。前者には、青いバンダナのサモア人若者のギャング・グループがあり、後者には、赤いバンダナのトンガ人若者のギャングが存在する。これらギャング・グループはしばしば抗争を繰り返しているといわれている。もちろん、ギャング・グループの抗争が、サモア人対トンガ人という構図でいつも生じているとは限らない。ホノルルでのサモア人ギャング対フィリピン人ギャングの抗争は有名である。しかしギャングの組織がとりわけエスニック・コミュニティを母胎とする傾向が強いのは注目に値する。またギャングに組織化されていないポリネシア人たちも、エスニックの違いを介して、バーで口論を始めて喧嘩から殺傷にまで発展するという話もしばしば耳にした。このようなエスニック間の対立は、ハワイやニュージーランドでは同じポリネシア系の中でも先住民対移民という構図をとることもしばしばある。また、スヴァにある南太平洋大学の寮生の間でも度々エスニック間の摩擦が乱闘に発展している*4。
こうしたポリネシア人のエスニック・グループを今のところ媒介しているのは教会組織であるが、ニュージーランドの太平洋諸島民長老派教会(PIPC: Pacific Islanders Presbyterian Church)は興味深い組織である。これは主としてロンドン伝道教会(LMS: London Missionary Society)系の教会に属す超マイノリティであるポリネシア人移民たちが共同で教会をもつ試みで、午前中に英語の礼拝、午後は各エスニックの言語で礼拝を行う。参加しているのはサモア人、クック諸島人、ニウエ人、トケラウ人の各グループである*5。同じ教会の中で牧師がすべてのエスニック・グループにいるとは限らず、いくつかの言語を一人でこなす重宝な牧師がいることもある。ポリネシア人牧師の場合も本国よりニュージーランドで資格を得ていることの方が多い様子である。
PIPCに属す人たちは外部の人たちに対して、自分たちがサモア人であるとかニウエ人であることよりもむしろポリネシア人であることを強調する。教会の幹部同士の会話を洩れ聞くと、次のように話していた。「この間電話を受けると、お宅の教会にはサモア人の牧師はいるかというんだ。私はね、ポリネシア人の牧師ならいます、と答えたよ」。そして、彼らは「混じる」ことの方が好きだ、と説明する。教会活動を通して、末端の信者はともかく幹部のレベルではさまざまの交流がある。また葬式等の儀礼では、教会の他のエスニックのメンバーも参加するので、儀礼そのものには少しづつ妥協が生じている。
ポリネシア人の各エスニック集団が互いの文化について表象しているのは、主として言語の違いによるところが大きいかもしれない。それ以上に、互いの相違を細かく分析する局面に筆者は出会ったことはないが、例えばサモア人ならば、他のエスニックは細編みゴザの交換をしない、とか、クック諸島人ならば、他のエスニックは男の子の断髪式をしない、とかいった、ごく細かな慣習上の相違で語るのみであるようだ。それに対して、彼ら自身が自らの文化について語るとき、もっぱらリファレントになるのは白人の文化である。白人はこうだが、自分たちはこうだ、といった具合に語るときは常に、モラルや生活様式が語られるわけで、この意味では、彼らの文化は白人文化、現代西欧文化に映された鏡像となっているのである。
アメリカでは私の知るかぎりで、教会を通じても異なるポリネシア系エスニックが混じり合う機会はほとんどないが、しかし一方、アメリカでは最近統計で太平洋諸島民のカテゴリーが設けられ、アジア・太平洋系としてひとくくりに扱われるようになったことが、興味深い動きを誘導している。アジア系と共に政治的圧力団体を形成したり、様々な大規模集会に参加できるようになってきたのである。しかし目下のところ、学生等の集会でアジア系と共に集うことはありながら、あまりの社会経済的落差*6から共に行動はしにくいといういう愚痴もきく一方で、一般の太平洋系の人々は、未だアジア系と同じカテゴリーに入れられていることすら自覚していない状況である。
ポリネシア系の移民の場合、ほぼコミュニティとしては没交渉の状態でありながら、一方で、互いの生活文化の類似点は多く挙げることができる。例えば、親族の連帯が緊密であること、教会を中心にコミュニティが成立していること、衣食住の生活様式が似ていることなどは移民する以前からの類似であるが、同じような社会経済階層に属す傾向も強く、ニュージーランドなどでは職場でも顔を合わせることが多い。故郷からの訪問者を手厚くもてなしたり、伝統儀礼に熱を上げたりも同様である。つまるところ、コミュニティ・レベルでは没交渉でも、白人や他のアジア系エスニック・グループに比べたら近親感をもっているといえるかもしれない。しかしそれも、同じ諸島出身者との間に形成される関係とは比べ物にならないのが現状である。
4.観光とポリネシア文化
観光の場面でポリネシア文化を総合的に演出するということは、とりわけハワイでは顕著に行われている。ワイキキのポリネシアン・ショーも、ライエのポリネシア文化センター*7もポリネシア各地の歌と踊りを、万華鏡のようにちりばめて演出する手法をとっている。サモア人男性が手のひらで体をたたきながら踊るファアタウパチ*8、ハワイ女性の優雅なフラ、トンガ女性の手や指で踊る優美な踊り、紐付きボールを器用にふりまわすマオリのポイ・ダンス、フィジーの木製槍をもって踊る勇壮な踊り、しめくくりはタヒチ女性のベリー・ダンス、タムレ。サモア男性の火踊り(松明の軽業)も見せ場をつくる。ポリネシア文化センターは各国の留学生を使って、本場物の歌と踊りを地域別の特徴が際立つように上手に演出して見せてくれる。しかし、留学生たちは器用に他の地域の踊りも覚え、人材の少ないところには違うエスニック・グループから応援が出るらしい。
ワイキキでのポリネシアン・ショーは、これほど文化の細やかな差異を提示することにこだわってはいない。ハワイ人が自己の文化的主張を始める前の一九六〇年代以前には、単にショーとしての見栄えからタヒチアン・ダンス*9を何のことわりもなしに見せることがしばしば行われていた(山中 1992: 160)。現在はタヒチアン・ダンスばかりでなく、ポリネシアン・ショーとして、ポリネシア文化センターのショーのようなオムニバス形式をとることが多いが、センターと違うのは、このような地域毎の差異について全く説明を欠いていることである。出演者はどの踊りもこなすセミプロのダンサーたちで、移民二世も含む多様なエスニック集団である。ポリネシア人っぽく見えれば、フィリピン人でも加わるとの話も聞いた。
ポリネシア諸国のホテルで行われるショーでは、その土地の踊りだけを見せてくれることもあるが、それではやはり変化に乏しい。またポリネシアでは、もともと歌と踊りは見よう見まねで他の土地のものもいち早く採用する傾向があったから、島の人々が自分たちのものとして歌ったり踊ったりしている演目が他の諸島起源である場合も多い。それに加えて、最近ではオムニバス形式のワイキキ型のポリネシアン・ショーはその万華鏡のような演出の華麗さゆえか、あちこちで採用されるようになってきている。ブリガム・ヤング大学の卒業生は、ワイキキでまた故郷の島々で、セミプロのダンシング・チームのオーガナイザーを務める機会も多い。面白いのは、このような踊りを踊っている本人たちも、またそれを見ているポリネシア人たちも、踊りの見事さ、美しさを褒めたたえこそすれ、各地のエスニック文化の混在や混合、すなわち「真正さの喪失」を気にかける様子がないことである。このような場では、ダンサーも「ポリネシア人」になりきり、観客もそれを容認している。
タヒチ貴族の末裔タヴァナ氏がワイキキで経営するポリネシアン・ショーの一員、オーストラル諸島出身のイオテヴェ君は、マルケサス諸島の全身の入れ墨の絵図に魅せられ、同じ入れ墨を自分も入れたいと願った。タヴァナ氏にその志を告げると、氏も青年の熱意にほだされたが、やがてかの地では入れ墨が行われなくなって一二〇年の歳月が流れていることを知った。それでもあきらめなかった氏とイオテヴェ君はやがて西サモアまでやってきて入れ墨師を見いだし、念願通りに入れ墨を入れることができた。これは『月刊太平洋諸島』(Pacific Island Monthly 1982: 23-24)八二年一月号のカヴァーストーリーであるが、ポリネシア文化の現状の一面を語るものとして興味深い話だ。オーストラル*10出身の若者が、マルケサスの入れ墨に魅せられ、サモアに来て念願を果たしているのだ。彼には諸島別の文化の違いなどあまり問題ではない。この場面では、タヴァナ氏もイオテヴェ君もサモアの入れ墨師も、ともにポリネシア文化の担い手としてこの偉業の実現を喜びあっているのである(山本 1987b: 434-35; Linnekin 1990: 161)*11。
5.結語
太平洋の島嶼国家は、持ち回りで数年に一度太平洋芸術祭を催している。そこでは各国を代表するグループが歌と踊りを競い合う。その場で各国は特色ある歌と踊りを披露することで、互いの差異や特色を認め合い、かつ互いの連帯を表明するのである。同じ太平洋に生きる民として、同じ枠組みの文化を共有するとともに互いの特色を尊重し合う。その構図の中で、歌と踊りの特色は強調され、文化伝統を生み出していく。これはまた、ワイキキのポリネシアン・ショーでも同様であった。
南太平洋大学では、参加一三ヶ国の特色を表す樹皮布の文様が、ブロショアや教科書の表紙を飾っている。樹皮布という素材は共通だが、そこに描かれる文様はそれぞれに特色をもつ。
共通しているが、個々の特色を示すものが、各国の政治的スタンスを示す印として取り上げられ、殊更に強調されていく。
移民社会の成立する環太平洋の先進国でも、プロセスは緩慢なものでありながらも、同様のことが生じているのかもしれない。極小マイノリティとしての存在を外部に訴えるための連帯を作りだすには、ポリネシア人としてのアイデンティティの表明は欠かせない*12。そのためにはポリネシアの文化的近縁性は共通のものとして強調される。同時に、世代を経ていくにつれ生活文化は似たものとして収斂しながらも、互いのコミュニティをパラディグマティックに表象する文化的事象は、ポリネシア系エスニック・グループの下位分類を示す指標として、やはり強調されるのではあるまいかと思う。それら文化指標は、島嶼社会が国家として成立している限りでは、有効な下位区分の印として移民社会にも存在し続けるのであろう。
(注)
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